【セネガルプログラム】ゴレ島:15年の時を超えて

ゴレの日の出:学生たちと朝から海に行きました

2007年3月、修士論文を書き上げた私は当たり前のように博士課程に進むことにしていました。後に酷いケンカをしてしまいましたが、某先生の心遣いにより、セネガルに渡航することとなりました。これが私のセネガルとの出会いでした。

セネガルに渡航する際、どのようなことを見に行くのか、本や新聞記事を読みながら、セネガルでどんなことをするのか、ということを思いめぐらしていました。それまでブルキナファソで進めていた、ラスタマンについての研究をセネガルに派生させる形で、セネガルにもう一つフィールドを作るようなイメージを持っていました。そのような訳で、私の最初のそして最大のミッションは、セネガルでラスタマンに出会うことでした。

今、考えれば、当時の無知(もっと勉強してから行けよ!)が小恥ずかしいですが、セネガルに「ラスタマン」はいない…が、ラスタマンのような人たちはたくさんいる、つまり、ムーリッド、バイファルがそこらへんにいるのでした。

初めての滞在中、様々な人に「ダカールにラスタマンはいるか?」と尋ね続けていると、しばしば「ラス・マハ」というラスタマンがゴレ島にいるらしい、ということが分かってきました。そして、確か滞在も終盤に差し掛かったころ、ダカールで知り合ったバックパッカーの青年とゴレ島を訪れ、ラス・マハの営む宿泊施設に泊まり、深夜2時までラス・マハと植民地主義について語り合ったのでした。

ラス・マハ

それから15年。昨年のプログラムの際に再開を果たし、その時に約束した通り、今年度ゴレ島に宿泊し、ラス・マハと学生たちと濃密な時間を過ごすことができました。奴隷の家でのラス・マハの解説は、きっとどのガイドさんよりも熱いものだったと思いますし、宿泊先として用意してくれた一軒貸しの家も素晴らしく、環境についてのワークショップも最高でした。

夏のプログラムの報告をだらだらと書いてきましたが、そろそろセーターが必要な季節になりました。これで一区切りとしたいと思います。このプログラム自体は、大学のカリキュラム変更のため、今年がほぼ最後ではないかと思います。アフリカ界隈からは、暖かい目で見守っていただき、アフリカと日本の実質的な架け橋として、たくさん応援もいただいていただけに、4年で終わってしまうのは残念です。しかし、なかなか良い経験でしたし、大きな目で見たときに、素晴らしい試みであったと思います。どこかでこの事業の経験を引き継ぐことができるとよいと思っています。

コメント

このブログの人気の投稿

【食文化シリーズ】ンゴレ

【日本のアフリカン・レストラン】② Tribes(アフリカン・フレンチ)

ブルキナファソで非常事態宣言