「宗教と社会」学会発表
「宗教と社会」学会HP(http://jasrs.org/index.html)より |
ブログ、すっかりご無沙汰してしまいました。この間、何があったかは、近々書きとめようと思いますが、今回のエントリーは学会発表に関してです。
一昨年から科研費をいただいて進めてきた「宗教組織の経営についての比較民族誌的研究」の成果発表です。発表の場はいろいろな候補が上がったのですが、最もきつい批判が出るという、「宗教と社会」学会に決め、次のステップへの道筋を立てていきます。僕は相変わらずブルキナのクルアーン学校の話をします。資料は大方できていて、今日明日で最後の仕上げ、というところ。あとは貴一朗が元気に週末を迎えてくれることを切に祈りつつ…
宗教組織の「経営」についての民族誌的研究
代表:藏本龍介(東京大学)
◆構成
・趣旨説明:藏本龍介(東京大学)
・発表①:藏本龍介(東京大学)
「律遵守の僧院をつくる:ミャンマー・「森の僧院」の挑戦」
・発表②:清水貴夫(広島大学)
「宗教教育から世俗教育へ:ブルキナファソ・クルアーン学校の変容」
・発表③:田中鉄也(日本学術振興会)
「巡礼地を共有する:北インド・ヒンドゥー寺院間の軋轢と共存の模索」
・発表④:門田岳久(立教大学)
「地域開発の中の聖地:沖縄における御嶽経営をめぐる組織内競合とその帰結」
・コメント:西村明(東京大学)
・総合討論
◆趣旨説明
様々なモノやカネといった財は、宗教と相反するものと考えられがちである。たとえば現代日本において宗教が「胡散臭い」と語られるとき、その背景には宗教組織による「あくどい」資金集めや、莫大な財の蓄積への批判があることが多い。宗教は財に関わるべきではない、というわけである。このように宗教を経済とは無関係なある種の「聖域」とみる傾向は、宗教研究にもみられる。その背景にあるのは、宗教/世俗を二項対立的に捉える考え方である。T・アサドが指摘するように、西洋近代出自の宗教概念は、人間の実存をめぐる形而上学的なものとして定義されることによって、人間の日常的な生き方から弁別される。しかし現実の宗教実践は、どこまでも財との密接な関わり、いいかえれば「世俗」との絡み合いの中にある。したがって宗教実践の実態に迫るためには、既存の「宗教」概念から捨象されてきた「世俗」を問題化する必要がある。
こうした問題意識を踏まえ本セッションでは、宗教/世俗という境界を横断する領域として、宗教組織の「経営」という問題に注目する。様々な資源(ヒト・モノ・カネ・情報など)を獲得・所有・使用することによって、組織の目的を実現しようとする営みを、ここでは「経営」と定義する。その目的がいかに高邁で「聖なる」ものであったとしても、宗教組織もまた、他のあらゆる組織と同じく、「経営」という営みを行っている。本セッションではこの「経営」という営みを、一つの宗教実践として分析する。それによって、既存の宗教研究では捉えられなかった宗教実践の諸相を明らかにすることを目的とする。
それでは「経営」に着目するとはどういうことか。本セッションでは、「経営」という営みを、以下の二つの課題を軸として検討する。一つは、「社会・国家とどのように関わるか」という課題である。これは経営資源の獲得方法に関わる。組織運営に必要な資金や人員をどのように調達するか。社会のニーズや要請にどこまで応えるか。社会にどのようなサービスを提供するか。国家の法制度的条件にどのようにすり合わせるか。こうした諸点が問題になる。もう一つは、「組織をどのようにデザインするか」という課題である。これは経営資源の所有・使用方法に関わる。意思決定の権限をどのように配置するか。内部のサブ組織同士の関係、あるいは聖職者と俗人の関係をどのように調整するか。こうした諸点が問題になる。
以上のような目的・視点のもと、本セッションでは(1)修行場(①ミャンマーの仏教僧院、②ブルキナファソのクルアーン学校)を管理する組織と、(2)巡礼場(①インドのヒンドゥー寺院、②沖縄の御嶽)を管理する組織という、2種類の宗教組織を取り上げる。「修行場/巡礼場を形成・整備する」という試みは、どのような問題に直面し、それに対して各宗教組織はいかに対応しているのか。そしてその結果、どのような状況が生まれているのか。本セッションでは宗教組織の試行錯誤の実態を民族誌的に記述・分析することによって、宗教実践を、組織の目的、提供物、社会・国家との関係、組織構造といった諸要素が絡み合いながら展開していく一つのプロセスとして捉える見方を提示する。こうし
た作業を通じて、人類学的・宗教社会学的な比較宗教研究の新たな可能性を模索したい。
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