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【子ども学と子育て】Vol.30 バックパッカーとフィールドワーク(夏休み企画)-2 福山→広島 

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福山城の前でイェイ! 出発した8月7日は姫路城を見学し、その後福山まで足を延ばす。車窓はすっかり田園風景。実はこの前に終わらせておかねばならなかった原稿の一つが大幅に遅れ、パソコンを開きながらの旅となってしまい、「のんびり」は車窓だけなのですが… 姫路から約2時間かけ、福山に到着。福山城が面白いのは、新幹線ホームの中にお城がある、というか、お城の中に新幹線ホームがあることで、ホームから天守閣がよく見える。今回は鈍行の旅なので、見ることはありませんでしたが。 緑は目に優しいが、目に悪いパソコンを打ちながら写真だけでも旅気分 この日は福山への移動まで。きいも僕もやること満載なので、ホテルにチェックイン→ごはんとさっと済ませ、きいは夏休みの宿題、僕は原稿執筆に精を出す。なんか、家族旅行といった雰囲気はあまりなく、フィールドワーク中な雰囲気を漂わせながら初日は終了。 夏休みの宿題 翌日はコンビニで買った朝食を食べてすぐに福山城へ。 福山城は1622年に徳川家康の従弟の水野勝成によって築城されました。戦国時代ではなく、江戸時代になってからの築城ですね。堀をめぐらした城が建てられた、ということは、まだ戦国時代の雰囲気が払しょくされていなかったということでもあるのでしょう。この城の歴史はともかくですが、この水野勝成、という人の一生が大変面白い。若くして小牧・長久手の戦いで功績をあげるも、父とケンカをして勘当され、豊臣秀吉、小西行長、佐々成政、加藤清正、黒田長政と主を変えながらさらに功績を上げ続ける。腕一本でのし上がっていったわけです。そして、74歳で島原の乱に出陣し、87歳でまだ火縄銃を打っていたという、年老いても壮健な人だったのが分かります。 実物大の槍 火縄銃まで(以外に小さい) 前日の姫路城に比べると、その規模は小さいですが、城内の展示なども楽しく、きいもずいぶん楽しんでいました。 11時には福山を後に広島に向かいました。

【子ども学と子育て】Vol.29 バックパッカーとフィールドワーク(夏休み企画)-1 旅の始まり~姫路城

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国宝 姫路城の威容 今年の夏休みは、本当はアフリカに飛び、調査を進めるつもりではありました。しかし、一気に成長し、だんだんべったりすることが少なくなった貴一朗を見ていると、家族旅行など後何回できるだろう…となんだか焦りに似た気持ちをもつようになり、少し前から貴一朗と旅行することを考えていました。何度かブログでも書いてきたように、貴一朗はここのところ「信長の野望」ブーム。GWにも東海地方のお城を巡ったりもしたので、今度は西に行ってみよう、ということで、福岡への帰省に合わせて旅に出ることにしました。もちろん、ただ行くのはもったいないので、これを自由研究にしようということで。 予定はこんな感じです。 8月7日 出発→姫路城→福山 8月8日 福山城→広島→広島城→徳山 8月9日 徳山→下関→門司→小倉→小倉城→福岡の実家 今回の旅、上に書いたこと以外にも2つ考えていました。一つは、僕の仕事のことを理解してほしい、ということ、そして、もう一つ、旅の仕方を経験してほしい、ということ。前者はフィールドワークの面白さやしんどさについて、後者は貧乏旅行をどうやってやるか、ということ。 残念ながら、この旅が終わって思うのは、たぶんまだ何回か一緒に旅をしたりしなければ両方とも理解できないだろうな…という感じ。今回は「青春18きっぷ」を使ったのですが、下の写真の表情を見てもわかる通り、電車に乗り始めて1時間程度でこんな感じになりました。   1時間ほどで飽きる… 京都駅から最初の目的地の姫路まで新快速で約1時間半。姫路駅から一本道で続く大手前は、天下の名城の名にふさわしい道幅の広い立派な通り。とはいえ、これからの長旅を考えると、おそらく1-2㎞はある通りをブラブラなどは、フィールドワーカーとしては歩きたくなる距離ではあるのですが、同行の貴一朗と連れ合いのことを考えればバス一択…巡回バスも出ており、さすがに国宝廻りだけあり、しっかりインフラが整っているイメージでした。 「白鷺城」という別名をもつ白肌の城壁はとても美しいのですが、城門からかなりの距離。雨上がりの姫路は京都の38度、39度に比べるとずいぶん楽でしたが、長い道のりはなかなかに堪える(きいも連れ合いもまだ余裕)。 城内はかなりの人手。しかもかなりの部分がインバウンド系でした。中に入れる国宝のお城で、新幹線でアクセスがしやすく...

卵っていくらだったっけ?

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表.卵の相場(東京) 出典:JA全農たまご株式会社 すべてのものが高騰する最近。買い物に行く度にモノの値段が上がっている。最近でいえば、米の値上がりは以上で、1年で倍近くまで上がり、日本に住む人々の家計に大きな影響を与えている。そして、スナック菓子は値段を上げると手が出にくくなると考えたのか、値段を同じにして内容物を減らしている。ポテチなど、最近では45g程度で、最近は10%増とか言っても50g+α程度…なんか一袋一気食いでも罪悪感が薄れたというか、なにかしながらつまんでいると一瞬で消えてしまう。 こんな物価上昇は常に更新されていくので、最近高くなったものが何だったのか、すぐに忘れてしまう。その一つが卵。いつから高くなったかというと、2023年の夏場ころのようです( NHKウェブ20250201 )。原因は鳥インフルエンザにより鶏を大量処分にたことによるもの。それまで10個200円弱(業務スーパーで170円台のこともあった)だった卵が一気に300円に迫ってきた…メディアを巻き込んでの「卵・パニック」、こうやって書いていて思い出すのだけど、もはや200円を切ることなんて全く期待せず、270円くらいならとは思いますが、300円前後が当たり前になっていませんか? ところで、グラフを見て気づくのが、毎年夏場になると卵の値段が上がっていること。気温が高くなると鶏がばててあまり卵を産まなくなる、ということらしい( 朝日新聞「猛暑でニワトリも夏バテ 卵高騰、「エッグショック」超え」 )。これだけ安定供給できるようになった卵のことを考えれば、鶏が卵を産むための最適環境などはよく知られているのだろうし、そのために空調などで電気代がかさむとか、そのあたりのことは創造に易い。 そして、一方でやはり日本は食料品がずいぶん安く設定されていたのではないかという点は我われも認識しておかねばならないでしょう。コメも然りです。しかし、やはり食料は生命をつなぐための必須資源。少なくとも生産者やロジを担当する業者には、ちゃんとペイがあるように、そして、政治は何もせんならできるだけ中間搾取をやめるべき。エンゲル係数が上がって喜んでいた何とか大臣もいましたが、エンゲル係数が上がった状態で食料品が上がったらえらいことになる、というのに気が付かんかな… と最後は悪口みたいになりましたが、もう一度卵に話を戻すと、...

真夏の法要

先週末に 叔母が亡くなり、一昨日と昨日は法事のため忌引き。ちょっと遠いが関西在住だったこともあり、2日間ともに京都から通う。 普段着ることのないスーツを引っ張り出したものの、黒いネクタイが見当たらない。そして、ずいぶん前に作ったスーツで体になじまなない(太ったというより、体形が変わったようで、妙にスカスカなところとパンパンのところがある)うえ、 京都は37度、大阪も35度と、オールシーズンの礼服は、もはや「オールシーズン」用ではない。とにかく暑い。 5人兄弟の母だが、 親戚の中では、叔母と母が5人の中の二人姉妹だったこともあり、比較的よく行き来して話もたくさんしていた叔母。最初に母の実家を継いだ叔父がずいぶん前に亡くなり、その後、ここ数年の間に叔母と母以外の男兄弟が相次いで亡くなり、最後に残った二人だったこともあり、母の喪失感はいかばかりだろう。ここ1,2年、母から叔母のことを聞く限り、認知症が進み、母のことも思い出せなくなっていたというし、ある程度はこの日を想像できていたはずなので、ソフトランディングしてくれていることを望んでいるが。 市営の式場は十分にエアコンが聞いており、焼き場も併設されていて、通夜、告別式の間中は式場の中を行き来する程度。住職も来てくれて、とにかく遺族の負担は昔参列した葬儀に比べればとにかくシステマティック。もちろん、子どもの頃に叔母と叔父に世話になったこと、また、いとこがとてもかわいがってくれたことなどもあり、とにかく大阪の親戚に会いに行くことが楽しみだったこと。早くに亡くなった叔父はクラシック好きで、N響の定期チケットを持っていたのだけど、余るからなのか、どうかはわからないけど、東京の学校に通う僕のところによく送ってくれていて、高校生のころには何度もN響の生演奏を聞きに行った、などと、叔父や叔母の家族との思いでを回想していた。そして、よく考えれば、戦中生まれの叔母。そういえば、ほとんど戦争の話などは聞かなかった。 叔母は母より3歳年上の昭和13年生まれであることを聞くと、戦争をリアルに記憶されていたはずの世代。 母から聞いた戦争の話、もっと聞いておきたかったな…などと、式の間中思い出していた。 悲しい、悲しくない、という二択であれば間違いなく悲しいのだけど、87歳という長寿の部類だったこともあり、 諦念もあるし、 どちらかというと「お疲れ...

いつのころからか、ソバが好きになりました。「一由そば」@日暮里

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「ソバ」なんぞおやつでしかありませんでした。「食事」でソバ屋に入れば、大概丼ものと一緒に頼む。一種の強迫観念で、ソバは「軽い」という自己暗示にかかっていた、というところでしょうか(完全なるデブの思考…)。なので、「食事」のために「立ち食いソバ」に入ることなどなかったし、割高な和風の「ソバ屋」などもまず食事の選択肢に入ってくることはありませんでした。(ただ、「飲めるソバ屋」は比較的若いころに味を占めました) そして、特に関東を離れてからは、東京の醤油の利いたラーメンが恋しくなることしばしばで、パンチのあるラーメン屋という選択肢もあるのも、ソバ屋を遠くさせてしまっていました。 ここのところの投稿をご覧いただければお分かりのように、東京に行くとほぼアフリカ料理を食べているわけですが、最近では、評判の良いソバ屋に行くようになりました。食の好みの変化なんでしょうか、時々、強めのかつおだし、煮干し出汁とちょっとしょっぱ目の「返し」を欲するんですね。天ぷらはできればかき揚げを別皿でサクサクもしっとりも楽しみたい。 それで、先日の東京出張の際に、いくつかマークしていたソバ屋の中から、「 一由そば 」に決めいざ。 ここは24時間営業の立ち食いソバで、普通の「蕎麦」と「太蕎麦」がある。日本酒も純米がすこし荒々しくてよいし、ソバも無骨な田舎ソバがよい。そんなわけで、「太蕎麦」、そして、名物のジャンボゲソ天を注文。合計860円と、立ち食いソバにしては若干お高いが、吉牛でも最低それくらいすることを考えれば、全く許容範囲。 ソバはのど越し、うん、確かに。そういうソバも好きなのだけど、時に、もっさりして、顎を強力に動かさねばならないようなソバも好き。讃岐うどんか京都のうどんか、くらいの差がある気がする。「太蕎麦」をガシガシと喰い、大粒のイカゲソと厚めの衣をほおばると、喰ってる=生きている、ともいうべきな幸福感に満たされる。薄暗い立ち食いソバ屋の中、おっさんたちがソバをすする、昭和な雰囲気というのも捨てがたい。加齢のためか、この食べ応え抜群のソバのためか、そこそこに満腹になり、次の用事にむかったのでした。 リピートするのは間違いありません。

【町内会】④「火の用心」

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子どもたちも参加しました 出張の合間の土曜日。定例の町内会の会議の後に「火の用心」が再開されました。一般的に「面倒なこと」ですし、この時期に火の用心もないのですが、コロナの数年間中断していたのを復活させることになりました。 拍子木を「カンカン」「火の用心!」、もちろん、秋から冬にかけての火を使う季節に聞こえてくるこんな声。自分で出したことはなかったですが、町内会のお歴々と一緒に大きな声で。拍子木を打ちたくてきた子どもたちも少しずつ声に張りがでる。町内のお年寄りが音をききつけて玄関から顔を出し、子どもたちが拍子木を打つ姿に目を細め、こちらからも挨拶をする。 町内会を賛美しても錯誤な感じもしてしまうが、いつもあったことを改めてやってみる。きっと懐かしかったりもするはず。暑いさなか、水でも打ってみようか、などと思ってくれたら少しずつ顔の見える町内になっていくような気がしてなりません。  

【子ども学と子育て】Vol.28 歴史と地理を学ぶ 勝龍寺城

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写真1.正門から 「信長の野望」熱冷めやらぬうちに、実際に色々なところに行こう企画の第2弾。 毎週日曜日の水泳がお休みで、突然やることのない日曜日に(私ゃあやること山ほどあるんで、水泳を待つ間の喫茶店ワークを楽しみにしてたんですが…)。   ともあれ、少しのんびり目に10時ころに自宅をスタート、1時間弱くらいで勝龍寺城に到着。住宅地の中にポツンとあるお城ですが、なかなか品格のある「城址」でした。それもそのはず、戦国時代の文化人、細川藤孝による本格的な築城、明智光秀が山崎の戦の後に最後に籠った城、ということで、戦国時代の臭いの濃いところでした(写真1)。 現在、ある「城」は近年立て直されたものですが、門や石垣は当時のものを発掘して再現されています。この「城」の中は資料館になっており、この城に所縁のある細川藤孝・忠興親子、忠興の妻ガラシャ、そしてガラシャの父の明智光秀に関する展示が置かれています。 正面の門 正面の門を入ると、城内はきれいな公園として整備され、城壁沿いに桜が植えられている。シーズンになれば、とても気持ちの良い散歩道になることでしょう。「城」の内部は撮影不可なので写真はありませんが、ジブリの「かぐや姫」を思わせるタッチのキャラクターで描かれた勝龍寺城をめぐる歴史は大変親しみやすいものでした。 城内は公園として整備されている 一通り展示を見終わると、ボランティアの方に声をかけられる。「案内しましょう」とおっしゃっていたものの、「案内させろや!」くらいの圧がかかり、せっかくだし、お願いすることに。 城の歴史、再建の過程や発掘、城の構造まで、ボランティアの方は大変よく勉強されており、とても興味深い…年配のボランティアの方(女性)は、きいが飽きないように、よく話かけてくれるのですが、ボランティアの方も好きが講じた趣味らしく、話がとまらない。僕はと言えば、合いの手を入れて見たりして盛り上げてしまったこともあり、だんだん疲れてきてしまう… 再現された石垣 梅雨の明けた、暑い夏の日。そこで聞く歴史の話…アフリカでの僕の仕事の環境なわけで、僕はと言えば、好奇心爆発、ボランティアさんからいろんな話が聞けるのが楽しかったのですが、きいはだんだんため息をつくようになり、連れはもっと前からつまらなそうな感じ… この辺までかな、と思い、切り上げることにしました。 正面の橋 ...