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卒業論文(2024年度)

今年も卒論の提出日を迎えました。まだ全員提出…というわけにはいきませんでしたが、7名中6名が無事に提出しました。来週にはもう一人も提出できる予定です。今年の7名は、私のゼミ生としては2期目ですが、グローバルスタディーズ学科の第1期生。最初の卒業生です。 昨年 とはまた別の思い入れがありました。 毎年のことですが、それぞれの学生の関心が異なり、あるディシプリンに寄せることはしていないので、多様なテーマがあります。今年は、親族論、ファッション、流通、中国在留邦人、中等教育、在日コリアン、観光と多様なテーマが揃いました。学生とディスカッションしながら私自身も学び、とても面白い事実や資料を見ることができました。学生たちに感謝です。 去年も最後の2カ月くらいでゼミの結束が強まったように感じていましたが、今年は元々仲が良い学年だったのが、さらに強い絆で結ばれたように思います。最後の2週間、私の個人的な都合(言えないやつや博論やらほかの原稿やら…モニョモニョ)もあったのですが、ピアレビューを取り入れて学生同士で読み合わせをする時間を取るようにしました。なんと最後は自主ゼミを毎日のように開き、コメントを付け合い、というサイクルが出来上がっていました(かなり感動モノでした)。 残り数か月ですが、最後まで学生生活を謳歌してほしいと思います。

【映画】「荒野に希望の灯をともす~医師・中村哲 現地活動35年の軌跡~」(日本電波ニュース社, 88分)

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 今年は忙しい中、割と映画が見られているのがうれしいです。 12月4日は中村哲さんが凶弾に倒れて5年目なのだそうです。SNS上には、中村さんのような政治家が…とか、国民栄誉賞を…とか、いう賛辞の言葉が躍っていましたが、私はそんなことは微塵にも思いませんでした。清廉潔白で、利他的で、さらには頭脳明晰、どんな職業であっても成功すべくして成功した方のはずですが、大変幸いに「医」という人を癒す仕事に進み、その究極を突き詰めた方ではないかと思います。 中村さんにとっての「医」とは何だったのか? 上医、中医、下医という、「医」の考え方があります。 中国の陳延之の著書『小品方』に由来しているそうですが、一番有名なのは、「上医は国を治し、中医は人を治し、下医は病を治す」というもの。ほかにも、こんな会社くがあるそうです。 その1、 上医はいまだ病まざるものの病を治し、中医は病まんとするものの病を治し、下医はすでに病みたる病を治す。 その2、 上医の勤勉な医者は、毒さえも薬となして人を助ける。中医の凡庸な医者は、薬を薬として使って人を助ける。下医の怠惰な医者は、薬を毒となして却って病を重篤にする。 その3、 化学合成薬を使って治療する医師を下医と言い、漢方医のことを中医、そして食事で病気を治す人を上医、つまり食医と言う。 ( たかすぎ内科クリニックウェブサイト より) 医師にも関わらず、地形を学び、土木技術を学び、現地の言葉を学び、そして、約230haの砂漠を緑に変える…こんな評価をしてしまうことすら烏滸がましいですが、上医中の上医と言えるでしょう。そして、下の記事を見ると、次世代も育ち、中村医師亡きあとも地道に活動を続けられているあたりは、ペシャワール会の組織としても大変高く評価されるべきだと思います。 そして、私も長く砂漠化対処には関心を持ち、「緑のサヘル」というNGOに関わっています。コロナの影響で活動はかなり縮小しましたが、そうした視点から見ても、中村哲さんの見通しや行動力は、およそ我われ凡人にはたどり着けない境地におられたことを実感します。 昨年、中村哲さんのドキュメンタリー映画(この映画の劇場版)が公開されました。今回見たのは、そのDVD版です。言わずと知れた、食が紛争を止める、という食こそが平和の根源、という中村哲流の哲学が、体現していく様を大変わかりやすく映像に...

大きくなりました

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早いもので、もう12月に入りました。「師走」とはよく言ったもので、机の前から離れられないので走りはしませんが、ものすごい勢いで流れる時間に抗うように、何とか来年に積み残しないよう、日々、何かよくわからないものと戦っています。 さて、そんな中ではありますが、ブログのタイトルを見たら、貴一朗のことも…とか書いているのに、何年も書いていませんでした…ちょっとだけ写真を載せておこうと思います。 これは一乗寺フェス(2024年10月)の写真です。昨年も参加したこのイベント、同僚の安田さんがかかわられていることもあり、サクラ兼です。 その次は、2024年11月。二人で買い物のために道頓堀に。派手な街並みを楽しみました。 毎週日曜日は水泳に通っていますが、そのあとのランチ。もう大人と同じ辛さのカレーうどん、もちろん食べる量は父親譲りで、普通に大人の1人前。 近くの赤宮神社に奉納した書道をバックに。なかなか力強いよい字が書けました。 来年2月で9歳になります。こういう記事を書いていると、ここまで無事に大きくなったことが益々感慨深くなります。親ばかですが、素直で明るくて元気なので、なにを言うこともありません。このまま、大きくなってくれるとよいな、と思っています。  

通勤路にて

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2012年に京都に住み始め、途中3年間は別のところに住みましたが、通算で間もなく京都生活も10年となります。今の住まいに住み始めて4年目になりましたが、毎日大体同じルートで通勤をしています。 約30分の自転車通勤。とにかく上り坂の少ないルートを選ぶのですが、最もアップダウンの少ないのは、住宅地の中を縫っていくように走るルートです。それでも、そこは京都で趣向を凝らした住宅を見ながら走るのも楽しかったのですが、数年前、仕事でいろいろあって気持ちがふさぎ込んでいた時に道を変えてみることにしました。 何のことはなく、北大路通の高野川の橋を渡り、高野川に沿って北上する、というルートです。ほんの少しのデビエーション。その時に見える景色が下の3枚の写真です。雄大な比叡山、光る水面、そして大きな空。京都の北の方に住んでいると割と普通の景色だと思いますが、クサクサした心に突き刺さり、以来、このルートを好んで通勤路にしています。 ほんの数秒立ち止まり、比叡山を眺めてから、時に、写真を2,3枚とってからペダルをこぎだします。写真はもう100枚くらいは溜まったでしょうか。比叡山の定点観測ですね。 通勤路から比叡山を望む(11月27日) 通勤路から比叡山を望む(11月26日) 通勤路から比叡山を望む(11月17日) 下の写真も「定点」近く。春は桜吹雪、秋はこんな紅葉に囲まれながらの通勤路は、運動不足解消のために始めた自転車通勤を続ける動機にもなっています。 秋も深まってきました  

【日本のアフリカン・レストラン】④「Amaging Grace」@草加(ガーナ料理)

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日本のアフリカン・レストラン3軒目。 Amaging Grace @草加市です。こちらも前回のセブンスターと同じく比呂さんのご紹介なのですが、今回は比呂さんとご友人方ともご一緒させていただきました。ちなみに、比呂さんは Ethnic Neighborhood というYoutubeチャンネルを作られています。 東武スカイツリーライン新田駅から徒歩5分ほどのところにあるAmaging Grace。店内には、テーブル席が4つほど。我われ3名が到着した時には、まだ誰もおらず来店1号。 メニューを眺める。いわゆるガーナの定番料理が並んでいるのですが(これがガーナ人が喰いたくなるやつという理解ができた)、とりあえず、食べたことのないものを少しずついただきましょう、ということで、トゥオザーフィ(TZ)とワチェ、ケンケを注文。 ケンケ ケンケは何度かのガーナ滞在の時にも食べましたが、改めて食べてみて、ドンクヌであることを再確認。ベナン、ブルキナと食べ方もほぼ一緒。ブルキナ民としては、魚が大きいのが違和感(うらやましい)ですが、やっぱり海魚が合うのですね。旨いです。ちなみに、ケンケは2階のガーナ食材店で買っていきました(500円!)。 ワチェ(スパゲティの下) 比呂さんの Ethnic Neighborhood でも紹介されています。比呂さんからは、赤飯みたい…と聞いていて、おそらく ベンガ のことだろうと思っていましたが、ビンゴでした。豆も2階のショップで売っていましたが、ササゲですね。ほかのウェブサイト(大体自分が行ったところの名物料理的な書き方ですが、一様に北部(タマレとかワとか)ということも書いてあった)にも、書かれているように北側でよく食べられる、ということは、ブルキナなどとの繋がりあり、と見て、同じものと思っています。 正直なところ、これは旨かった…シトと呼ばれるペーストがあるのですが、これがつくだけでかなりいろんなものが食べられるのですが、これとゆで卵がついて、豪華な感じのするベンガでした。これ、ブルキナに持って行ったら売れると思うのですが。 TZトゥオザーフィ そして、トゥオザーフィ。これも念願でした。これは「ト」ですね。トは何回もこのブログに書いていますので、以下の記事をご参照ください。 https://cacaochemise.blogspot.com/2014/...

【日本のアフリカン・レストラン】③「Seven star international」@草加(ガーナ料理)

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入口写真 埼玉県草加市。この街にアフリカ料理店が5店舗ほどあると言われている。少し前に「ぐるなび」で「アフリカ料理」と検索してGoogle Mapに落とし込んでみたことがあるのだが、都内のよく知られたレストランを除けば、かなりの部分が埼玉県に存在している。ちなみに、関西には非常に少なく、京都に至っては、伏見区に一軒、タンザニア料理店がある程度。とにかく、アクセスしにくい。 今回は、埼玉県東松山市で開かれたセネガルコミュニティの月例Dahiraに参加したのち、草加に移動、ここのところ仲良くさせていただいている比呂さんに教えていただいた Sevenstar international へ。  店内は、カウンター6席ほど、4人掛けのテーブル席が5つほど。カウンター横には、アフリカの食材が積まれている。 この日、僕が店に着いたのが19:30ころ。すでにテーブル席は満席、カウンターには2人の女性が大声で談笑しており、その隣に食事をしている男性がいた。すべてアフリカ系の人たち。全てのテーブルに料理が出されており、客はいるが、店員の男性(おそらく店長)はそれほど忙しそうではない。カウンターの隙間から見えるキッチンには、3名の女性が見える。調理を担当しているのだろう。 店長と思われる男性に、メニューを聞くが、心は決まっている。久しぶりのガーナ料理ということもあり、ここは定番のライト・スープ…頼んではみたものの、実はその直前にセネガルコミュニティでチェブ・ギナールをいただいてきている。ちゃんと喰えるのか… 着丼(?)。 フフーは大人のこぶし二つ分くらいのかなりの大振り(ガーナの通常サイズ)。そしてライト・スープには、臓物と肉がゴロゴロしている。日本基準だと2人前は軽くある。フフーはヤムパウダーっぽい味がしたが、ライト・スープはなかなか(と言っても、それほど味の規準があるわけではないのだが…)。それでも、遠い記憶で、スープを口に運んだ瞬間に汗が噴き出したライト・スープを思い起こすと、若干日本向けか。店は完全にガーナ人向けだが。ともあれ、節度のある辛さ、といったところ。 移動からの調査、夕飯2食目、と言ったところで、テンションが上がりきらず、店長氏に話がほとんど聞けなかったが、とりあえずガーナ料理を思い出す、という最低限のミッションは完了。

【セネガルプログラム】ゴレ島:15年の時を超えて

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ゴレの日の出:学生たちと朝から海に行きました 2007年3月、修士論文を書き上げた私は当たり前のように博士課程に進むことにしていました。後に酷いケンカをしてしまいましたが、某先生の心遣いにより、セネガルに渡航することとなりました。これが私のセネガルとの出会いでした。 セネガルに渡航する際、どのようなことを見に行くのか、本や新聞記事を読みながら、セネガルでどんなことをするのか、ということを思いめぐらしていました。それまでブルキナファソで進めていた、ラスタマンについての研究をセネガルに派生させる形で、セネガルにもう一つフィールドを作るようなイメージを持っていました。そのような訳で、私の最初のそして最大のミッションは、セネガルでラスタマンに出会うことでした。 今、考えれば、当時の無知(もっと勉強してから行けよ!)が小恥ずかしいですが、セネガルに「ラスタマン」はいない…が、ラスタマンのような人たちはたくさんいる、つまり、ムーリッド、バイファルがそこらへんにいるのでした。 初めての滞在中、様々な人に「ダカールにラスタマンはいるか?」と尋ね続けていると、しばしば「ラス・マハ」というラスタマンがゴレ島にいるらしい、ということが分かってきました。そして、確か滞在も終盤に差し掛かったころ、ダカールで知り合ったバックパッカーの青年とゴレ島を訪れ、ラス・マハの営む宿泊施設に泊まり、深夜2時までラス・マハと植民地主義について語り合ったのでした。 ラス・マハ それから15年。昨年のプログラムの際に再開を果たし、その時に約束した通り、今年度ゴレ島に宿泊し、ラス・マハと学生たちと濃密な時間を過ごすことができました。奴隷の家でのラス・マハの解説は、きっとどのガイドさんよりも熱いものだったと思いますし、宿泊先として用意してくれた一軒貸しの家も素晴らしく、環境についてのワークショップも最高でした。 夏のプログラムの報告をだらだらと書いてきましたが、そろそろセーターが必要な季節になりました。これで一区切りとしたいと思います。このプログラム自体は、大学のカリキュラム変更のため、今年がほぼ最後ではないかと思います。アフリカ界隈からは、暖かい目で見守っていただき、アフリカと日本の実質的な架け橋として、たくさん応援もいただいていただけに、4年で終わってしまうのは残念です。しかし、なかなか良い経験でしたし、大きな...