【映画】『ノー・アザー・ランド』(2024年、監督:バーセル・アドラー, ユバル・アブラハーム, ハムダーン・バラール ラヘル・ショール, 95分)
久しぶりに劇場で鑑賞しました。それなりに忙しく、なかなか劇場での鑑賞は叶いませんが、どうしても見たい作品は万難を排して時間を作るべきですね。
あらすじはこちら(公式Webサイトに繋がります)。
イスラエルとガザ、長く争いの続くこの二つの「国」。2020年代のイスラエルによる破滅的なガザ侵攻は苛烈で、SNSの浸透により、リアルタイムで、剥き出しの現実の映像が世界に配信されています。僕も、今でもこうしたニュースにはアンテナを高くしているつもりですし、そうした中で目の前で人が死に、侵略されていく姿を目にしてます。
この作品のチラシを目にしたときに、必ず見に行こうと決め、近くの「出町座」のスケジュールを確認していました。ようやくそのチャンスが訪れ、授業前に見に行ってきました。この映画を見ようと思ったのは、撮影陣にユダヤ人ジャーナリスト、ユヴァル・アブラハームが参画していること、ユダヤ人がパレスチナで撮影していること、残酷な描写が多いはずだけど、ユダヤ人の中に残る良心、言い換えれば、一抹の希望が見える作品であるだろう、と思ったからでした。
ずいぶんニュースに触れてきたことを自負していましたが、この映画の映像はあまりに凄惨で、胸を締め付けられるシーンが多く、鑑賞中に頭が真っ白になるようなシーンがいくつもありました。舞台となるマサーフェル・ヤッサを侵略する軍隊や入植者による破壊と二人のジャーナリストと、デモ隊の衝突、圧倒的な武装を誇る軍隊による無慈悲な発砲…あまりに理不尽ないくつものシーンは衝撃的です。そして、何より、人間の一番汚い部分を隠そうともせずに、獣性むき出しなのは、圧倒的な資源を持つユヴァル以外のユダヤ人であり、ユダヤにも関わらずガザに寄り添おうとするユヴァルを、ユダヤ人であるが故に責める被害者の男性は、よほど追い詰められているのにも関わらず抑制的で理性的で、「ディベート」と言い、ユヴァルもそれを受け入れる。もはやどちらが追い詰められているのかわからない。
この作品は「「イスラエル人とパレスチナ人が、抑圧する側とされる側ではなく、本当の平等の中で生きる道を問いかけたい」という彼らの強い意志のもと」製作された、という。(公式Website「ストーリー」)
様々な意味での理不尽さを突き付けられ、そのうえで、この映画のあらすじを見返すと、こんな一文が目につきます。被抑圧者に寄り添うユヴァル、そして、彼を寛容に受け入れるパレスチナ人ジャーナリストのバーセルとその家族の姿に、その光景が見えるのですが、そうしたところにこそ、一縷の望みが見出されるような気がしました。
この映画が公開された後も、イスラエルによる人道に悖る残虐な、非人間的な軍事侵攻は苛烈さを増し、ここ数週間で戦線をイランまで拡大し、さらにアメリカまでが大っぴらに加担する、という事態になりました。歴史的に被抑圧者であることが多かったユダヤ人による復讐のような、ここ数年間のガザ侵攻を目の当たりにするわけですが、世界の多くがイスラエルという国は、長い歴史を誇るにも関わらず、未成熟な人間性と21世紀になってジェノサイドを繰り返すことを顧みない政府、そして、それを容認する多くの市民に、一人一人の「個」ではなく、ユダヤという「民族」に対する憎悪の念が噴出しています。きっと、多くの人がテルアビブにそそぐイランのミサイルに溜飲を下げました。やはりそこで人が傷ついているのに、こんなことを繰り返しては悪い無限ループに陥ることがわかっているのにです。
ところで、きっと、この光景を肉眼で見ている人もいるであろう、ガザの人びとは、どんな気持ちでこれを見ているのだろう…ユヴァルは、どんな気持ちでその後を過ごしているのだろう。
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